昔、政治と民意についてこんな話を聞いたことがある。日本医師会の会員数と妊婦さんの数はだいたい同じらしい*1。日本医師会は国政に絶大な影響力を持っているのに、妊婦さんの意見は通り辛い。それは何故か考えてみましょう。という話。
さて、10年前にはこれからネットで日本が良くなっていくという希望があった。
Twitterなどでみんなが自分の意見を自由に発信できるようになったからだ。
しかし、それは幻想だった。
人々が好きなことを発信できるようになったからといって、急に世の中がガラッと良くなることはなかった。
いくつか、ネットで政治を良くしようみたいな活動をされている人を見掛けるのだが、あまり応援する気にはならない。
『ネットで自由に意見を言えるようになったところで、それだけでは足りない』ということに気づいていなさそうだからだ。
僕は三つの課題があると思う。
- 正しいことを言うのは難しい
- 仲間を集めるのは難しい
- 意見が違う人と話し合うのは難しい
正しいことを言うのは難しい
何かを変えたければ自分の困りごとを『証拠に照らして』『緻密な論理展開で』言葉しなければいけない。それは高等技術だ。殆どの人はそんなことできない。ということは、その気になればどんな意見であっても「お前は間違ってる」で片付けることができてしまう。それはよくないと思う。
よくTwitterで社会に対する不満を見かける。
本人は勇気を出して声を挙げたのだ。意見には誠意を持って耳を傾けるべきだと思う。
にもかかわらず、引用欄を見ると事実誤認や論理の飛躍を指摘して冷やかしている人がたくさんいる。ちょっと冷たいなと思う。
とはいえ、僕は発言者が弁論の素人だからといって事実誤認や論理の飛躍が含まれる主張を無条件に受容するべきだとは思わない。
みんなの事は出来る限り正確な情報と論理的思考に基づいて決めるべきだ。
僕はこの『ちゃんと意見を言うのは難しい』『ちゃんとしてない意見を受け付けるべきではない』『でもみんなの意見を聞きくべきだ』という相反する問題について考えている。
仲間を集めるのは難しい
さっきの医師会と妊婦さんの件はこれらしい。一度医者になった人はずっと医者だが、妊婦さんは1年で妊婦さんではなくなってしまうから、組織力に差が出てしまうという話らしい。
Twitterでも、同じ問題意識を持っている人同士でもっと積極的に連帯していこうという話にはなりづらい。
なったとして、すぐに変なカルトが出来るだけだと思う。
僕も経験がある。
とある『良くないことをしている政治家』をTwitterで批判したことがあった。
すぐに、同じようにその政治家を否定している人たちと対話が始まった。
最初のうちは同じ意見を持っている人同士で話が合うと思った。
ところがそうはいかなかった。
僕はその政治家がしたAという行為は良くないと思ったが、Bという行為は別に問題ないと思った。
その人たちにそう伝えた。
そうしたらその人たちがキレだして、複数人から『なんであんな政治家を擁護するんだ』とか『お金を貰ってるのだろ』とか言われて不愉快な思いをした。
もうこの人たちには関わらないでおこうと思ったし、政治についてTwitterに書くこと自体が不利益だと悟った。
自分の意見を世の中に伝えていくには、どうしたって同じ意見を持つもの同士で寄り添う必要がある。
断っておくが、少人数の意見だから黙殺していいとか、大人数の意見だから採用するべきだとかは思っていない。
しかし、現実問題として同じ意見を持つもの同士でまとまらないと政治力にはならない。と同時に、同じ意見を持つ人同士でまとまるのは面倒事が多い。
よって、ある程度責任ある立場の人がハブになってくれたほうがいいと思う。
少なくとも近しい意見を持っているからと言って一般市民同士が無理対話しなくてもいいようにするべきだ。
意見が違う人と話し合うのは難しい
もし僕が正し意見を持つ側だったとしても、口喧嘩の相手が西村博之さんなら絶対に自分が言い負かされる自身がある。
意見の中身ではなく口の達者さで勝敗が決まってしまうなら最初から話し合う意味がない。
ちゃんと弁論について訓練を受けた人同士が論を戦わせたり、時には譲歩し合ったりして話を決めるべきだと思う。
以上が、僕の問題意識だ。
この先の民主主義はどうあるべきか
僕はこんなシステムだったらいいと思う。
まず、自分の意見を代弁してくれそうな人を見つけ訴え出る。ここは拙い言葉でもいい。
依頼を受けた人は、論理武装して国会で弁舌をふるう。
その人に思いを託した人がどのくらいの人数いるのかがちゃんと可視化される。
こういうシステムだったらいいと思うし、それを支援するITシステムがあったらいいと思う。
*1:いま確かめてみたら数字が合わなかったのでちょっとニュアンスが違ったかもしれない